こちらの記事にいただいた
コメントへお返事しました!
↓↓↓
よろしくお願いします
よろしくお願いします
( ˘ω˘ )ペコリ
---------------
今日は3月11日ですね。
あれからも7年も
経ってしまったとは・・・
経ってしまったとは・・・
3.11当時のチャンポンの話が
好きなので書きたいと思います。
ちなみに、私とチャンポンが
出会ったのは2011年4月なので
出会ったのは2011年4月なので
地震が起きた当時は
まだ知らない人同士でした。
まだ知らない人同士でした。
電話やメールを送って
彼からの連絡を待ちました。
彼からの連絡を待ちました。
翌日、3月12日。
東京行きのチケットを
買いました。
買いました。
内訳は日本人6人、
外国人はチャンポン1人。
外国人はチャンポン1人。
わざわざやってきたチャンポンに
イミグレの人も驚いたらしい。
チャンポンからの電話は
単に気が付かなかっただけらしい。
単に気が付かなかっただけらしい。
地震発生は金曜日、
そのまま週末で休みだったので
ずっとゲーム廃だったとか。
そのまま週末で休みだったので
ずっとゲーム廃だったとか。
チャンポンの心配をよそに
マイペースな弟くんでしたが。
マイペースな弟くんでしたが。
長い間大きな余震が続いて
多くの外国人が母国へ避難する中、
多くの外国人が母国へ避難する中、
物資を持って日本へ駆けつけた
チャンポン。
チャンポン。
居ても立っても
居られなかったんでしょうけど、
居られなかったんでしょうけど、
行動を起こせる人なんですよね。
本当に尊敬。
本当に尊敬。
そして日本人として、
心からの感謝。
m(_ _)m
がっつり帰宅難民になり
歩いて帰宅しました。
歩いて帰宅しました。
かなり早歩きで家まで
2時間30分かかりましたが
2時間30分かかりましたが
幸い私はかなり近い方でした。
それでも後半はとにかく足が痛くて、
相当しんどかったです。
相当しんどかったです。
当時の日記にこんなメモが。
とのこと。
忘れてた。
忘れてた。
おしまい
----------------
LINEで読者登録できます!
どうかこのボタン押してください!
↓↓↓
よろしくお願いします( ˘ω˘ )
---------------
弟くんはガチのゲーマーです
↓↓↓
コメント
コメント一覧 (20)
今も辛く、なかなか解決しようのない中で… チャンポンさんご兄弟にその様な事が。。 いや、弟さん… おっとりし過ぎやろ。でも、ご家族思いのチャンポンさんとは思っていましたが、行動力
心配する気持ちを行動力に変えて…
あの凄い中に行ってしまうとは… 。
さすが!ちゃんこさんの旦那様。。^ ^
でも弟さんの肝の太さも見習いたい。
そして素敵なお兄ちゃんが身内にいるって素晴らしい!
そして、ちゃんこさんと出会ってくれて嬉しいっっ。(╹◡╹)ありがとう♡
対して当時ワタシがとても悲しかったのは、職場に家族で日本に移住されてた中国の方がいらしたのですが、両家の親から『あんた達死にたいのか?』と言われて帰国せざるを得なくなった彼女は泣きながら事情を話してくれました。
あのときのことは何年経っても忘れられないですね。
ちなみに当時住んでいた実家は食器が半分以上割れ家具は全部動き、どえらいことになってました。ただ父とっておきのブランデーも割れたせいで家の中はものすごくいい香りでした(笑)
なかなか出来ることじゃないですよね(。´Д⊂)
そしてちゃんこさん、当時、帰宅困難者になったんですね( ;∀;)
近い方だったのが不幸中の幸いかもしれませんが、それでもパンプスで二時間半は…キツイですね((T_T))
靴擦れしにくいような、歩きやすい運動靴を職場に置いておく、
というのは普段歩きにくい靴をはきがちな女性には大切な事ですね!
チャンポンさん、素晴らしい!
本当家族思いで行動力もある、素晴らしい人間性に方ですね。
そんな方に出会えて、選ばれたちゃんこさんもやっぱり素敵な方なんだなって。
感動しました。
もう7年、でもまだ7年なんですね。
当時まだ日本にいたのですが、父の実家が宮城で親戚も多くいたため、大騒ぎになりました。
叔父の家が津波で流され、連絡も取れず、途方に暮れていたら、旅行先でのんびりしてた叔父夫婦から連絡があって力が抜けたのも今でもは笑い話です。
その後、まだ元気だった父と親戚の元に救難の物資を運んだのも思い出です。
自分も友人に連絡が取れず、ツイッターでフォローしていたとある野球選手へお願いしてツイートをフォローしてもらったら、心優しい方たちのフォローで同じ会社の横浜支店に方につながり、無事確認が取れたという奇跡もありました。
自分にとってはいろんな意味でやはり忘れてはいけない日です。
チャンポンさんも直ぐに行動するタイプで素晴らしいです。
でも、まだまだ被災地や被災した皆様は大変なのに、日本にいる家族・友人達がまるで全てが通常に戻っているかのような態度や言動に戸惑う事が多くあります。もう7年たったのに…まだ7年しかたっていないのに…。合掌
ちゃんぽんさん、本当に素敵な方
お水持ってくるの重かったでしょうに…
もう7年ですよ〜、時間が経つのって本当に早いですね( ;∀;)
チャンポンの弟くんは普段からあまり連絡を取らないマイペースなタイプなのです(笑)でもさすがに地震の時はもっと敏感に反応してくれたら良かったのにー、と思ったり。。。(゚ω゚)
弟くんのメンタルの強さは間違いなく本物ですね(笑)
チャンポンの行動は本当にすばらしいと思ってます、どんなに家族が心配でも災害の起きた場所へ突っ込んでいくのはとても勇気が要ることだったと思います。私がもし彼と同じ立場だった時に同じ行動できるかどうか正直自信がありません( ;∀;)
実はあの当時チャンポンの会社の東京駐在の中国人スタッフが地震発生の翌日に早々に国に帰ってしまったんです(笑)地震に慣れてない人たちが異国の地で怖い思いをしたら自分の国に帰りたいと思うのはまぁ自然な気持ちかなぁとは思います。私も中国で何かあったら速攻日本に帰るはず!(笑)
ミクロなできごと。さんの職場の中国人スタッフの女性の方が帰国せざるを得ない時に泣いてくれたのは嬉しいですね( ;∀;)日本に感情移入してくれていたってことだと思うので!
そしてご実家は大変だったのですね。。。ご家族がご無事で何よりでした!!
コメントありがとうございます!!ほんと、家族のために行動できる旦那を尊敬します( ;∀;)
帰宅困難者でしたー!!会社に泊まるか歩いて帰るかギリギリまで悩んだんですけど、同じ方向の人が帰るっていうんで一緒に帰りました!途中まで1人じゃなかったからがんばれたと思います。不安はだいぶ軽減されました( ;∀;)
せめてヒールのないパンプスは必須だなと!
コメントありがとうございます!旦那はほんとにすごいと思うしそんな彼に選ばれた私はマジでラッキーだと思います(笑)人生の運は間違いなく使い果たしましたが、ほんと光栄( ;∀;)
宮城の叔父さん、無事で本当に何よりでした!!でも家が流されてしまってその後生活は大変だったと思います。。。
あの頃は知らずの人同士の連携プレーがいろんなところで見られた気がします。普段は他人に関心がなさそうな人もここぞと言う時に協力してくれるのに感動というか、なんだかんだ日本人はたくましいなぁと実感しました( ;∀;)
あの時はすごくて、外資系の会社もほとんど休みになり、外国人はみんな自国に帰ってしまいましたよね。(あるヨーロッパの国は、政府からお迎えの飛行機がきて帰った人もいると聞きました。)
中華系の人は情がすごいですよね。
知人の日本に住む中国人(北京出身)は、家族で被害がすごかった仙台までボランティアに行っていましたし、日本人って、もちろんそういう人もいますが、冷めているなと思う時があります。
ドイツの皆さんの心温かいお言葉本当に嬉しいですね( ;∀;)海外からも多くの励ましがあって本当にありがたいと思いました。。。
私も今は日ごろから被災地のことを考えるわけではありませんが、現地はまだまだ復興の途中なんですよね。。うまく言えないんですけど、私がなんとなく思うのは被災地を特別扱いすぎないことも大事なんじゃないかなと思ったりします。募金をこれからも続けていきたいですが、あと私にできることは、普通に東北のものを買ったり、東北に旅行に行ったりすることかな、と。
まだあまり東北に行ったことのない旦那を連れて行くことが私の目標です!!\(^o^)/
コメントありがとうございます!水をもうほんとにたくさん持ってきたっぽいです( ;∀;)弟くんも喜んでくれていたことと思います(*´ω`*)
私は人間性に自信がないので土壇場の状況では逃げ出す可能性が高いです(笑)
コメントありがとうございます!私の会社が釣り日系の会社だったので震災を機に休む人はいませんでしたが、外資系の会社は社員が帰国すると言う意味でも大変だったって言う話を聞いたことがあります。弟くんの会社も外資系で調子が国に帰ったそうです( ;∀;)まぁ私が異国の地で災害にあったら日本に帰りたいって思うはずなので!
中華系の人々の家族との絆は本当に強いものだと実感しました。かおりさんの北京出身のお知り合いも本当に素晴らしい方ですね( ;∀;)
ちゃんこさんのように何時間も徒歩で帰った方も多かったですよね。
会社で夜明かしの人も…。
いろんなことを思い出すとうまくまとめられないのでここら辺でやめておきます。
わたしは、たまたま上海に出張中で、当日は仕事だったのですが、日本急に連絡がとれなくなったのでスゴく不安になりました。
その日の夜はNHKをみたのですが、津波の濁流と気仙沼の火災のことしか放映されず、ますます負担額募り、「このまま中国にいたい」と本気で思ってしまった自分があたました。翌日帰国予定だったのですが、日本に飛ぶ飛行機も欠航が多い中、たまたまANAで帰れたのですが、全く地震の体験!をしてないがゆえに、なんとなくしばらくは気持ちが🎌の皆に追い付かなかったことを覚えています。
コメントありがとうございます。ぐわいさんも大変な経験をされたのですね( ;∀;)
あの頃のことは当日に限らず1ヵ月ぐらいの間のことを今でもいろいろ思い出します。地震の翌日家の近くで見た桜がきれいだったのとか、暗くなったら渋谷のスクランブル交差点前とか。。。
コメントありがとうございます!にゃ。さんは上海にいらっしゃったのですね、海外にいるときに日本で大地震が起きると言うニュースを聞くのはそれはまた大きな不安があると思います( ;∀;)中国にいるときに日本の悪いニュースを聞くのは怖いので。。。
家に帰ったら帰ったでみんなの気持ちについていけないと言うのもまた…寂しいというかなんというか( ;∀;)